被災地に行って思う
2015年 08月 25日
2011年3月11日の東日本大震災の大地震の50分後、大川小学校を大津波が襲いました。
全校生徒108人の内、保護者が迎えに来なかった78人中74人が犠牲になりました。
教師も当時学校にいた11人の内、助かったのはたった1人だけでした。
二階建ての校舎の上にまで津波は押し寄せました
校舎と体育館をつなぐ鉄筋の空中廊下も津波に押し倒されました
画面の左半分にプールがあったのですが、今は跡形もありません
敷地内には献花台と慰霊碑がありました。
お盆を過ぎた時期でも慰霊に訪れる人は常に絶えませんでした。
子供たちは、どれほど怖かったことでしょうか?
廃墟となった校舎の前の慰霊碑で手を合わせていると、自然に涙が溢れてきました。
大川小学校の跡地は津波や地震の恐ろしさを後世の人々に伝えるために保存されることになりそうです。
石巻市にはとても大きなイオンモールもあり、その辺では震災の影響はあまり感じません。
しかし、少し離れたところには仮設住宅が今も残っており、ここが被災地だった事がわかります。
石巻市街地を見おろす日和山公園に登ってみました。
そこに震災前の写真がありました。
震災前は空き地などありませんでしたが、震災から4年経った今でも建物のない空き地が多くあるのがわかります。
石巻市街地でも復興はまだまだ先のようです。
多くの子供が亡くなった大川小学校の近くではかつて釜谷という集落があり学校の近くには大川郵便局もありましたが、集落は全て更地になっていて今は跡形もありません。
その近くを車で通ると、「震災復興」の幕を張り付けたダンプとひっきりなしにすれ違い、市街地中心部から外れると「復興」というには全く程遠いのがよくわかりました。
2020年の東京オリンピック開催が2年前に決定しました。
その影響で大手のゼネコンは、被災地よりもオリンピック村へ人材を移動させました。
政府は、被災地の復興よりもオリンピックの方を優先したのです。
福島の原発の汚染水問題は、安倍総理の言うように「完全にコントロールされている」と言うには程遠い状態が今だに続いています。
放射線で汚染された帰宅困難地域に住民が帰ることができる日は本当に来るのでしょうか?
福島第一原発の廃炉ってホンマできるのか、はなはだ疑問です。
津波で家が押し流された地域の土地のかさ上げ工事もまだまだ全然できてません。
「東北の人は辛抱強い」と一般に言われます。
もしオリンピックによって置き去りにされたのが、東北ではなくてせっかちな人が多い関西だったら大大大ブーイングだったと思いますよ。
被災地がちゃんと復興できたと言える日が1日も早く来ることを、本当に望みます。
このような様子をテレビや新聞で見る度胸が痛みます。
我が家が流されたり、壊れたりするのを指をくわえて
見てないといけないという事がどれだけ辛い事か
経験してみないと絶対にわからないと思います。
私たち夫婦は年寄りの上に体も弱く出来るのは
わずかな募金だけでした。本当にやりきれないですね。
もしわが身に起こったらと思うとぞっとします。
東北の方が私の故郷、岡山にも移住されておられますが、
中々よその土地に慣れず、苦しんでおられるようです。
私は田舎があり兄弟も多く、いざという時は
身を寄せる事も出来ますが、皆様がそういう方ばかり
おられませんから、本当に大変ですね。
一日も早い復興を願わずにはにいられません。
しかし、学校は避難場所にもなっていて近所のお年寄りも大地震の後に避難してきたそうです。
大川小学校は、北上川の河口から5kmの地点にあります。
震災前には、津波はせいぜい河口から3kmぐらいまでしか来ないであろうと思われていたそうです。
先生たちで避難場所を協議した結果、お年寄りがいることもあって堤防近くの空き地に避難することになりその移動の途中で津波に飲み込まれたそうです。
復興が早く進んで、地元の方が安心して元の場所で暮らせる日が早く来ること望みます。